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zoom RSS 東地琢磨 通訳の遺書

<<   作成日時 : 2009/03/20 18:51   >>

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1946(昭和21)年2月23日・・・といえば
山下奉文大将がフィリピン・マニラ郊外のロス・バニオス刑場で処刑された日でした。

もしかしたら、山下大将ファンの方ならば、この日に特別な思いを持っていらっしゃるかも
しれません。(私もその一人です)

この日に処刑されたのは、山下大将だけではありませんでした。
他に初代マニラ憲兵隊長であった大田清一憲兵大佐と、

今回、ご紹介する東地琢磨(ひがしじ・たくま)通訳でした。

東地琢磨氏について、ご存じの方はどれだけいらっしゃるでしょうか
彼がどのような思いで絞首台に上ったのか。
彼の生涯がどのようなものであったのか?
彼のきょうだいの戦後はどのようなものだったのか?

おそらく、ほとんどいないのではないか?と思います。

山下大将が処刑されたという事実を知った元部下たちは、
翌日24日夜に集まって、自主的に通夜を営みました。
15人ほど集まったとのことですが、そのほとんどが、
第14方面軍司令部(尚武集団)で山下大将の近くで
仕えていた人たちのように思いました。
そのお通夜の記録が『巨杉会会報』(きょさんかいかいほう=山下大将に仕えた人たちの戦友会。
1996年解散)にありました。

そのなかでは、山下大将の近くにいた人ならではの言葉があり、
それはそれで山下大将がどんなに部下たちにとって大切な方だったのだろう
と私に思わせるものでした。
大田大佐と、東地通訳については、「他のお二方」ぐらいの
扱いでした。
もし大田大佐と東地通訳が第14方面軍司令部に勤務していたなら
「他のお二方」という扱いではなかっただろう。きっと、面識がなかったから
このようになったのだろうと思います。

東地琢磨通訳の遺書は、『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会 1953)にも
掲載されていないばかりか、この書物の最後に不幸にも戦争犯罪人として
亡くなられた方の名簿一覧があるのですが、彼の名は「ヒ」行ではなく
「ト行」にあったということで、日本国内でも知られていなかったと思います。

彼の残した遺書は、次のようなものでした。

大親分・親分・子分がいっしょにいけて、あの世でも道案内していける

何と、これはちり紙に書かれたものだそうです。

※大親分=山下奉文大将
※親分=大田清一憲兵大佐
※子分=東地琢磨氏です。
おそらく、この3名は、死刑確定者として同じ収容所で
最期を待つだけの日々だったと思います。その中できっと彼らだけにしか
分かりあえない濃密な交流があったに違いありません。

この遺書の出典は、前出『ロスバニオス刑場の流星群』261頁です。

東地琢磨氏は、まだ23歳の若さで絞首台に上ったのでした。
彼は日本人の父と、フィリピン人の母の間に生まれた、現地の方でした。

『世紀の遺書』には東地通訳が和歌山県出身と書かれていますが、これは、彼の
父親が和歌山出身で、大東亜戦争が始まると同時に日本に強制送還された
ことによると思います。

一方で、東地琢磨氏は、日本軍の軍属として召集を受けます。
そして日本軍のために通訳としての役割を果たすことになります。
彼の立場は、アメリカ・フィリピンから「敵」とみなされ、さらに
雇われ先の日本軍からも信頼されないという苦しみがありました。
そして、日本が敗戦すると、戦争犯罪人として起訴され、わずか18日間で
死刑判決を受けるのです。
大田清一大佐が死刑判決を受けるのがその2日前(1月5日)で、
マニラ占領の際の日本軍最高指揮官であった本間雅晴陸軍中将は
まだ裁判中であったので、東地通訳の裁判に注目していた人は
少なかったのではないでしょうか?

※この部分を見た人で、「当時の日本軍は、東地琢磨氏のような日系人を
召集して働かせておきながら、信用していなかったなんてひどい」と思われる方も
いるかもしれません。私は正直そういう気持ちを一瞬でも感じてしまいました。

しかし、情報戦においては、
そういう「人情」こそが、アダとなることがあります。
実際、日本軍が雇った軍属の中で、アメリカ軍に重要な情報を漏らした上、
日本が敗戦となり、捕虜となるや、アメリカ軍の軍服を着て平然と姿を現したものも
いるのが事実です。
なので、東地琢磨氏のような方の悲劇は、戦争がある限りはこれからもあるでしょう。
平時においてだって、正社員と派遣社員の待遇の違い(賃金だけでなく、必要な情報などを
十分に与えられている立場とそうでない立場)があることを考えていただきたいと思います。
また、軍属を雇う担当者が、冷厳な目でもって彼らを遇するしかないというつらさも・・・。

大東亜戦争時に山下大将の下で情報参謀として活躍した堀栄三氏の
この本を御一読願いたいと思います。

大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)
文藝春秋
堀 栄三

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この本を読めば、田母神俊雄空将がよく「世界は腹黒い

と言われるのが理解できると思います。
また、田母神空将の講演を聴いたり、著書『田母神塾』などを読んだりして
さらに理解を深めたいと思う方におススメです

さて、東地琢磨氏のきょうだいの戦後はどのようなものだったのでしょうか

彼の妹である、初子さんは、戦時中お母さまとともにフィリピンにいました。
まだ4歳だったとのことです。なので、琢磨氏とはきょうだいながら一度も
会ったことがなかったそうです。
戦後、学校に通うようになると、初子さんは周囲から
「日本の子どもだ」
「お前の兄は憲兵隊で人殺しをした!」
といじめられました。
いじめられないように、母方のフィリピン名を名乗り、引っ越しまで
したとのことです。顔を見たことのない父や琢磨氏のことで
いろいろ言われることが、どんなにつらかったことか。
果たして、自分は存在していいのか分からなくなってしまった時期まで
あったようです。
そんなある日、フィリピンの男性が、彼女の立場を理解した上で
結婚しようと言ってくれました。このことが、彼女にとって
自分の存在を認めてくれるひとがいる、ということを実感できた瞬間だったようです。

また、初子さんにとって、素晴らしい出会いがありました。

それは、シスター・テレジア海野常世(うんの・とこよ)(1911-1989)との出会いでした。
シスター海野は、マリアの宣教者フランシスコ会の修道女です。
この修道会は、幼稚園の経営や病院(新宿区に聖母病院がある)経営をしている会です。
彼女は60歳の定年まで幼稚園園長を
勤めて、その後フィリピンにやってきたとのことです。

※「テレジア」というのは、シスター海野の修道名です。
19世紀末頃に生きた、フランスのカルメル会の修道女・「小さき花のテレーズ」から
つけたとのことです(瀬田修道院のシスターに伺いました。ありがとうございました)
この「小さき花のテレーズ」というシスターは、日本でも大人気です。

カトリックの洗礼名として使われることも多いです。
彼女は、
弱く、小さい、欠点だらけの人間を
神様は大切に思って受け入れてくれると
子どものように信じきっていた
」ということです。
彼女は生前、修道院の外には一歩も出ないで
掃除や年老いたシスターの世話、洗濯、お祈りに明け暮れる毎日でした。
でも彼女の帰天後、生前書き綴っていたものが書物として世界を駆け巡り、
第一次世界大戦の時など、フランス軍の男子たちは、みなこぞって彼女の写真やメダイを
購入し、軍服の裏などに隠し持っていたということです。
その名にあやかった方ということです。
ちなみに、インドの「マザー・テレサ」のテレサも、「小さき花のテレーズ」からつけられたとのこと。

画像


貧しい子供たち、特に日系人たちのために尽くそうと・・・。
物質のためではなく、心のために・・・と。
60歳を過ぎてのフィリピン生活は、気候的にもつらいものがあったはずですが、
シスターはそのようなつらさを一切出すことはありませんでした。

初子さんは、そのような修道女と出会い、1979(昭和54)年に見たことのない兄・琢磨の
墓を建てます。また、日本軍の兵士たちの遺骨収集にも携わりました。

画像


このお墓の中央には、『ヨハネ福音書』15-13の

人その友のためにおのれの生命を棄つる、これより大いなる愛はなし

と刻まれているとのことです。

章姫が、シスター・テレジア海野のことを知ったのは、前出の『巨杉会会報』でした。
山下大将の軍司令部に勤めた人たちの集まりの会報に、
彼女が紹介されていたということがとてもうれしかったです。
そして、彼女の伝記でもある、この本を読んで
改めて日本とフィリピンの友好のために捧げてくださったということに感謝しています。






最後になりますが、東地琢磨さま
あなたは、大東亜戦争中に、通訳として日本のために働いて下さいました。
おそらく、人間関係の難しいなかで、苦しい思い、悔しい思いをたくさんされたことと思います

そして停戦を迎えるや、戦争犯罪人として絞首刑という刑を受けられました。
2月23日に絞首台に上がる順番は3番目ということでしょうから、
山下大将、大田大佐を見送ってから絞首台にのぼられるというつらさは、いかばかりか
私の貧弱な想像を超えた苦しみだったに違いありません。
それでもあなたは、その現実を受け入れられたのですね。
それにもかかわらず、これまで私たちはあなたのことを知ろうともしていませんでした。
今回、あなたに出会えたことで、たくさんのことを教わったことを嬉しく思います。
日本のために、ありがとうございました
もし私がいつかフィリピンに行けたなら、お墓参りをさせていただきたいと思います。
今の私には難しいので、せめて絵文字の花束をお供えしたいと思います



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