「停戦」日

中々ブログを更新できませんでした。

資料を目の前にしても、「あーでもない、こーでもない、
わからない!
となることが多くて、中々やろうと思っても放置状態が続いておりました。


本日は、マスコミなどで「終戦記念日」とかいわれています。


私は、山下大将や武藤中将と「おつきあい」させていただくようになってから
どうしてもこの表現に違和感を覚えておりました。


航空自衛隊ご出身の参議院・宇都隆史議員は、次のように
つぶやいておられました。

http://twitter.com/#!/TakashiUto

TakashiUto 宇都隆史
理解されていない方が多いが、8/15は玉音放送により事実上武装解除した停戦日。
9/2がポ宣言に調印した敗戦日。
終戦日はサ講和条約が発効した1952.4/28だ。日本が6年7ヶ月、占領されていた事実を伝えよう!


私もまったく同意です。


議員さんの中でも安易に「終戦記念日」の語を使う方も多そうな中
救いです。

山下大将たち、第十四方面軍司令部の皆さんは、「停戦」を
どのようにとらえていたのでしょうか?

山下大将以下、比島方面の陸軍は、
玉砕戦法を取らず、山奥に立てこもるという戦法をとりました。


栗原賀久・第14方面軍参謀の手記より

画像



「大和基地」というのが、山下大将たち、第14方面軍の司令部があったところです。





山下大将といえば、「マレーの虎」というあだ名が有名ですが、

マニラの鼠
と米軍に言われていたことは余り知られていないかもしれません。


武藤参謀長の「比島戦の実相」より


8月13日・・・阿南陸軍大臣から「楠公精神と時宗の決断をもって敵を撃砕すべし」という
激烈な訓示が伝わってきた。


8月14日・・・海軍側(フィリピンにおいては、海軍も陸軍と同様に陸での戦いに
協力していた)の情報によると、日本はポツダム宣言を受諾する意向を申し入れたらしい
ということ。

山下大将以下は、ここで初めて「ポツダム宣言」なるものを知った!

武藤参謀長ご自身は、理性的にはサイパン陥落の際に、日本は負けたと
副官にいうほどであったけれど、
やはり、それを感情的には受け止められなかったらしいです。

私の感情は、米軍の(日本が降伏するという)ビラを信じたくなかったのだ。
それがいよいよ事実となると、私の血は沸き立つのをどうすることも
できなかった。
その日秋雨が降っていたのも、永久に忘れないであろう



それからさかのぼることひと月前、山下大将たちは、玉砕案まで考えてもいました。

日本の国土を守るため、フィリピンで食い止める」と自分たちだけでなく、
隷下部隊にも強制するしかなかったのです。

それは、食べ物も、兵器も、十分な通信技術もない中で、
餓死していく様子を見守るしかないようなものらしかったです。


8月15日。午後10時半@比島

東京からの放送で、停戦の詔が出たことと、鈴木貫太郎総理の告示および
阿南陸軍大臣の自決が伝えられました。


その後、ひそかに山下大将と武藤参謀長はいろいろ話し合ったようです・・・。

その中には、自決すべきかどうか、まであったと思います。

多分、武藤中将よりも、山下大将の方が、自決の考えが強かったのかなあ?と
想像しています。
武藤中将は、自分の宿舎に帰るときに、山下大将の専属副官に

「おい、今晩は気を付けてくれよ」

どうも、切腹のことを言い含めていたようです。

副官は山下大将の部屋に急いで入り、

「閣下、今晩はここにおかしてください!」とまで言ったと。

山下大将は、

俺は決して自分一人だけいきやせんよ。ルソンにいる兵隊を
一人でも多く返す大任が、まだ俺には残っているんだ。
今更俺一人が死んだって、どうにもならんよ


と言い聞かせたそうです。


山下大将を、上官としてだけでなく、父親として慕っていた参謀の中には

閣下、どうか死んでください!」とまで直言する人もいました。

それに対しても

「俺はこのルソンで、敵味方問わず多くの人間を殺している。
この罪の償いをしなければならないだろう、日本に帰るなどとは夢には思っていないよ。
ただ、俺がここで死んだら、責任をとるものがなくて、残ったものに迷惑をかけるだろう。

だから生きて責任をとる!」

その言葉を聞いた参謀は、ただ泣くしかなかったということです。


でも現実は、淡々と事務的に停戦と武装解除に向けての
事務作業が司令部内で始まりました。

感情に支配されていないのが、本当にすごいと思いました。


8月19日に、上級司令部である南方総軍から停戦命令を受け取った山下大将は、
翌日に訓示を出すための準備に取り掛かりました。


「軍紀の弛緩をいましめ、皇軍の面目を傷つくものあらば、
厳重これを処断し、一殺多生の効を収むるに躊躇すべからず


と武藤参謀長の意見を取り入れ、示しました。

武藤参謀長は、第一次世界大戦後のドイツ軍の軍紀退廃を回想し、
万が一のことを考えていたのだそうです。

普通ならば、「皇軍ならば大丈夫だ」と思いたいのですが、
未然に防ぐためには必要なことなのです


そのような事務的な部分など、停戦という初めての経験のなかで
難しいことが多かったと思いますが、

わずか数日前には「楠公精神で敵を撃滅すべし」という訓示が中央から
出されていたぐらいで、部下将兵の中にも、師団長など指揮官レベルでも
まだ、停戦を受け止められない人たちが多かったと思います。
師団長レベルだと、山下大将が呼びつけて「一喝!」
だったとのことです。


武藤参謀長以下が一丸となって、新たな戦場に出るという覚悟の中で
実施していったと思います。

だから、どうしても、私自身はこの日を境に新たな戦場に行く人たちも
いたということを思ってしまうのです。
終戦記念日と簡単に言えないと思ってしまい、こんな題名になってしまいました。

なお、渡辺錠太郎大将関連についても、また機会を見つけて
書いていきたいと思います。











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