軍人の道は一本道

アクセスカウンタ

zoom RSS 昭和20年初めの支那戦線

<<   作成日時 : 2011/11/01 21:54   >>

ナイス ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

近藤新八中将の話も三回目に入れました。

(いつもは、別の話にそれて、中々書き続けるのが難しいです。でも問題意識は
薄れてはいません)


近藤中将は昭和20年4月に、第130師団長(在広東・南支那)となりますが、

その前に、当時の支那戦線の状況と、支那派遣軍の見通しがどのような
ものであったかを記す必要があると思います。


私たちは、多分「支那事変」ではなく、「日中戦争」と教わり、そのように自然に
認識し、「長い間泥沼な全面戦争だったのだ」と理解していると思います。
少なくとも私はそうでした。

佐藤守空将は、講演の中でのお話で、
支那派遣軍の停戦処理について触れられ、

支那派遣軍の岡村司令官は、降伏調印にサインをしたが、
決して日本軍は支那軍に負けたわけではない!


画像


山下大将たちがアメリカ軍に負けたのは確かだが!

と言われていたのが、私の中でひっかかっていたからです。

私の中でも、「日中全面戦争」という理解をしていたから、この佐藤守空将の言葉を
意外に感じたのだと思います。
実際はどうだったのか?

何を常識ハズレな〜!と思うことを考えるっ!これが学問というものです!」

とは私は大学時代お世話になった某先生から聞いて、いまだに記憶している言葉です。
この言葉の一端に倣い、私のできる範囲で、支那派遣軍の昭和20年初めの考えを理解しなおして
みたいと思います。

まず、この当時の日本軍の戦況を説明したいと思います。

●昭和20年1月。フィリピンの山下大将たちがマニラからバギオへと移り、ここで米軍の猛攻撃を受け、
 内地からの補給も途絶え、
 「自活自戦」という言葉が真実味を帯びだした。
 山下大将は、この戦況をみて、ラウレル大統領以下フィリピンの要人を
 日本に向けて脱出させようと決意した。(3月21日ラウレル脱出)

この比島の戦況を見た参謀本部作戦部長・宮崎周一中将は、

本土決戦は避けられないと考え、本土決戦の対処を第一とし、
台湾・支那・満州はあくまで第二義的だとした。

宮崎中将のこのような作戦の見通しを踏まえて決定された
「帝国陸海軍作戦計画大綱(昭和20年1月20日)」はこのようなものでした。

出典:『戦史叢書64 昭和二十年の支那派遣軍(2)終戦まで』昭和48年より
※赤字は章姫による。

画像



この史料から、当時の大本営は
連合軍の上陸を阻止するために、大陸の東南方面(上海や広東)を強化しようとしていたことが
わかります。
そのような中で、軍の編制も改正され、近藤中将率いる独立混成第19旅団も、師団に格上げされる
こととなりました。




歴代陸軍大将全覧(昭和篇 満州事変・支那事変期)
楽天ブックス
中公新書ラクレ 半藤一利 横山恵一 中央公論新社発行年月:2010年01月 予約締切日:2010年0

楽天市場 by 歴代陸軍大将全覧(昭和篇 満州事変・支那事変期) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

[DVD] 戦記映画 復刻版シリーズ5 支那事変海軍作戦記録
ぐるぐる王国 グリーン DS
詳しい納期他、ご注文時はお支払・送料・返品のページをご確認ください発売日2004/7/21戦記映画

楽天市場 by [DVD] 戦記映画 復刻版シリーズ5 支那事変海軍作戦記録 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
昭和20年初めの支那戦線 軍人の道は一本道/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる