テーマ:大東亜戦争

たくさんの力を頂いてきました!

皆様 今年こそは本当によい一年になりますように! 正直年末年始とも、あまりよいニュースは少ないし、 これからどうなるんだろう・・・というような事案も多いのですが・・・。 そのような中で私は、私自身の「パワースポット」に行きました。 ここです! とて…
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香港・広東方面の帝国陸軍

前回のエントリーでは、昭和20年初めの支那戦線状況について ざっくり説明しました。 当時の陸軍が最優先していたのは。 連合国軍の上陸をいかに阻止するかということであったと。 ところで近藤中将は、昭和18年から台湾軍参謀長をつとめ、昭和19年から、独立混成第19旅団長 をつとめており、汕頭 (現在の広東省東部…
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昭和20年初めの支那戦線

近藤新八中将の話も三回目に入れました。 (いつもは、別の話にそれて、中々書き続けるのが難しいです。でも問題意識は 薄れてはいません) 近藤中将は昭和20年4月に、第130師団長(在広東・南支那)となりますが、 その前に、当時の支那戦線の状況と、支那派遣軍の見通しがどのような ものであったかを記す必要があると思い…
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謹厳実直。

近藤新八中将を一言で表現するなら 「謹厳実直」かなあと思いました。 この人の軍歴を見ていくと・・・。 近藤中将の簡単な軍歴です 陸軍大学校を軍刀組の次点で卒業し、歩兵学校に配属されたけれど、 新京と奉天で憲兵隊長の経験もある。 特に憲兵科に行ったということでもなさそうですが…
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「停戦」日

中々ブログを更新できませんでした。 資料を目の前にしても、「あーでもない、こーでもない、 わからない!」 となることが多くて、中々やろうと思っても放置状態が続いておりました。 本日は、マスコミなどで「終戦記念日」とかいわれています。 私は、山下大将や武藤中将と「おつきあい」させていただくようになってから …
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武藤参謀長の「葡萄酒」

今日はカトリックにおいては「復活の主日」にあたるということで、 各地の教会では盛大なごミサが捧げられていることと思います。 このミサの起源は、今から2000年以上も前のこと キリストが十字架に磔となる前に、パンと葡萄酒を用い、 自分をいつまでも記念するように定められた弟子達との「最後の晩餐」です。 「イエスは杯を取…
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「あまり気にしないで下さい。これでいいんですよ。」

今から60年前の今の時間 私のハンドルネーム(章姫)に一字頂いている方含め、7名の方々は、 自身の死とちょうど直面されていたのでは?と思います。 私自身が武藤章中将と出会ったきっかけは、熱海にある伊豆山神社のついでに 興亜観音へと足を延ばしたことだったかもしれません。 (ここに「A級戦犯」として処刑された方の遺骨が一時…
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ある「昭和受難者」の最期⑤ 素朴で純情な男

山口憲兵大尉は、何とか自分の運命を受け入れようと、坐禅を組んではみたものの、 10分と続かなかったとのこと。 当然「無我」の境地になど及びもつかず、初めて信仰を求めている自分に気付いたということです。 ☆死刑囚独房の内部(山口憲兵大尉筆) 当時ク―パンで戦犯容疑として拘留されていたのは40名で、 山口憲兵大尉が…
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ある「昭和受難者」の最期③ 六人の死刑囚

再び、「昭和受難者」シリーズに戻ります。 では、前田大尉は「戦犯死刑囚」としてどのような生活を送っていたのでしょうか? その前に、この「六人の戦犯死刑囚」について、お一人ずつご紹介したいと思います。 出典:南不二夫『戦犯 六人の死刑囚』(飛鳥書店 1953)より 戦犯六人の死刑囚 (1953年)飛鳥書店 南 不二…
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ある「昭和受難者」の最期②

前回のエントリーでは、前田利貴・陸軍大尉が、最期の数カ月をともにした 人たちに宛てた遺書を紹介しました。 しかし、この遺書は、前田大尉が「自分がどのように死んでいくか」を 後に続く人たちのために残したものであり、 この遺書の文中にある「遺書・遺髪の送付」の「遺書」とは別のはずです。 最初に、肉親に宛てた遺書(これも『世…
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ある「昭和受難者」の最期①

今から61年前の今日9月9日。 ティモール島クーパンというところで、 オランダ軍による軍事裁判によって死刑判決を受けた 我が国の二人の軍人が刑を執行された日です。 いわゆる「戦争犯罪人」ということで・・・。 ポツダム宣言受諾後、 「第10項 われらの俘虜を虐待した者を含む一切の…
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佐藤守空将と「ファントム」

先日の「終戦記念日」のことです。 人ごみが苦手な上、静かに祈りたかった私は、 靖國神社から一番近いカトリック教会で、ごミサに与り、 夜は、元南西航空混成団司令・佐藤守空将の講演を聴きに行きました。 ※この日は、「聖母被昇天の祝日」なので、カトリック教会の入り口では、 特別にお祈りを捧げてほしい方の名前を…
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東地琢磨 通訳の遺書

1946(昭和21)年2月23日・・・といえば 山下奉文大将がフィリピン・マニラ郊外のロス・バニオス刑場で処刑された日でした。 もしかしたら、山下大将ファンの方ならば、この日に特別な思いを持っていらっしゃるかも しれません。(私もその一人です) この日に処刑されたのは、山下大将だけではありませんでした。 他に初代マニラ…
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山下奉文大将、教誨師との対話

前回、前々回の記事においては、山下奉文大将自身が、 日本国民に対して伝えようとした言葉について書きました。 この言葉を言い終えた山下大将は、 「言いたいことは全部言い切った」という安堵感があったと思います。 その後、森田正覚教誨師と語り合うのですが、 この対話は、当事者である山下大将も、森田教誨師もつらかっただろうと思…
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山下奉文大将、最期の言葉…その2

前回の続きになります。 以下、山下大将の語った言葉になります。 「私は死に臨んで、今や蘇生せんとする日本の皆様に言いたいことが4つあります。  聞いていただきたい。  その第一は、義務の履行ということであります。  この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。  そしてまた、この言葉ほど実践…
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山下奉文大将、最期の言葉…その1

山下奉文大将は、今から63年前の今日 フィリピン・マニラ郊外のロス・バニオス刑場において絞首刑となりました。 執行直前に山下大将が国民に伝えたいと思って、教誨師・森田正覚氏を 相手に、以下のような言葉を残しています。 ※出典:森田正覚著・佐藤喜徳編『ロスバニオス刑場の流星群』芙蓉書房 1981より      かなり長い…
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戦争の呼称について

1945(昭和20)年8月15日に、日本がポツダム宣言を受諾したことによって 停戦を迎えたこの戦争についての呼称は、以下の4つが 多く使われているように思います。 ① 「大東亜戦争」    1941(昭和16)年12月12日に閣議決定(首相:東條英機)されて、    使われるようになった呼び方。 その第一項…
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